Dendrodium キャッチアンドリリースに対する嫌悪感を反省してみる

キャッチアンドリリースに対する嫌悪感を反省してみる 

久し振りに、愚樵さんのブログを見て、こちらのエントリー「キャッチ&リリース」…ワンステップ上の余裕 を知りました。(そこで、 dr.stoneflyの戯れ言さんが、私に向けてこのエントリーを書いて下さっていた事を知りました。)

仰るようにキャッチアンドリリースの問題は、単純ではないですね。
昆虫採集だって、ザリガニ取りだって見方によれば、確かに残酷な遊びです。
これを原罪と呼ぶのかどうかは知りませんが・・・・・

只私が麻生(現)自民党幹事長が、数年前琵琶湖条令への協力を依頼された時、釣り同好会の会長として、キャッチアンドリリースという楽しみ方を止めるわけにはいかないと、琵琶湖条令に協力を断った事に対しての批判をしたかったのです。
釣りと言うのは魚にとっては、極めて残酷な事なのに、
釣っても又放してやる自分は、優しい人間であると自己欺瞞して好い気になっている釣り仲間たちの、機嫌をとっているところが、私には我慢ならいところだったのです。

浄土真宗で悪人正機と言うのは、
自分の悪の部分を認識し、これで自分は不幸になっても仕方ない者であるとか、死んだら地獄に行くより他無かろうと、自分自身に絶望している者を、救う為偉い人が考え出してくださった方便であると聞いています。
キリスト教の、原罪を神の一人子が身代わりになって償ってくださったと言うのも、同じような趣旨ではないでしょうか。

浄土真宗では、
善人尚もて救わる、いわんや悪人おや!

と言われていますが、自分の罪深さを恥じる人の方が、自分は正しく立派であると思い違いしている者よりは、マシである。
だから悪人正機(悪人が正客である)と殊更のように説かれているのだとか。

良し(葦)悪し(葦)の中を流るる阿弥陀川
  なにわのことはとにもかくにも

という道歌もありますように、善悪は本来無いのだから、良いの悪いのと言う事が間違っているのだという事でしょう。
善悪というものは、本来は無いものであるから、
罪悪感に責められている者が、南無阿弥陀仏と唱えたら、それだけで極楽浄土に生まれ変わる事ができると聞かされた時、
それを素直に信じて、南無阿弥陀仏と唱え、これで阿弥陀様に救われると信じる(思う)ことが出来たときに、人間本来の自由を取り戻すことができる。
つまり救われると言う事になるのだという風に聞いています。
(ローレンツの、アンビバレンツというのも、全ての事象には両面性があるということで、正も邪も相対的なもので、本来的には善も悪も無いということではないかと、私は自分流に解釈しています。)

ですからキャッチアンドリリースには、本来善も悪も無いのかもしれません。
しかし、魚を苦しめている事実を無視して、自分は優しい、自分の善行の邪魔をするなというような立場で、物事を処理するという事は、褒められた事では無いと思います。

ましてや琵琶湖の生態系を守る為に、取った魚(主にブラックバス)は家に持ち帰ってくださいという協力依頼を、無碍に断ってまで、その偽りの善に固執するというのは人としてお粗末過ぎるし、国及び国土を良い方向に導くと言う決意で成っている筈の国会議員が、取るべき態度ではないと思ったのです。

仏教では、惻隠の情(可哀想なという思い)という言葉が有りますね。
正義かどうかではなく、そんな可哀想な事はしたくない、するな!という考え方に人々がなる時、
人は今よりずっと幸せになれるのではないかと思います。

Comments

TB感謝です。

わこさま、はじめまして。
愚礁さんのとこでは思いがけず思索の種をいただき感謝です。
わこさんの想いはよく解ります。
政治家の欺瞞は簡単に見抜けますね。
バスフッィシャーの言い訳もまあ幼稚なものです。

浄土真宗とかローレンツとか善悪の両面とか難しいことを言われても、なかなか解りにくいのですが、ワタシの疑問は人間というのは「食べなく」ても「命を弄ぶ」ものなのだろうか? ということです。バサーは弄ぶために幼稚な言い訳をします。でも、実際にはバスフィッシングのみに限らず昆虫採集もペットを飼うのも「命を弄んで」いるのですが、何故人間はそうせずにはいられないのだろう? と考えてしまいました。「命を弄んでいる」のは人間だけですね。その人間が命を弄ぶ理由はともかくとして、

>そんな可哀想な事はしたくない、するな!という考え方に人々がなる時、人は今よりずっと幸せになれるのではないかと思います。

この結論はなかなかいいですね。好感がもてます。


FC2にもTBが通りませんので、コメント欄にて昔の関連エントリー貼ります。よろしくお願いします。

http://dr-stonefly.at.webry.info/200612/article_6.html

dr.stonefly 様

コメント有難うございます。
私は滋賀県に住みながら、ブラックバスをまだ食べたことが無いのですが、(近所では売っていませんので)余り美味しくはないですか?
でも、食べられなくも無いとのことで、滋賀県で食べる魚なら、それで”御の字”ではないかと思います。(魚だけは余り期待できない土地ですから)

さて
人間というのは「食べなく」ても「命を弄ぶ」ものなのだろうか? との命題についての、私の考えを、述べてみたいと思います。

昔聞いたことのある話に、
肉食動物は、共食いしたら種族が絶滅してしまう事になるから、狼等は戦っても相手が負けを認めたらそれ以上は、攻撃しないように初めから本能として設定されているから、同類同士の死闘は無いけれど、
ウサギのような草食動物の場合はその本能(同類との死闘は絶対しないという本能)は設定されていないので、戦いだしたら、相手が虫の息になっても尚攻撃し続けると言うのがありました。

動物にはこの外にも色々な事が、本能として設定されているようですね。
本能であるから、否応無しにそうしてしまうと言う事です。
(だから、狼が優しくて、ウサギが冷酷であると言うわけではないでしょう)

人間の場合は、他の動物と比べると、本能で規定されている事が少ないと思います。
だから他の動物をいたぶったりする事もしてしまうと言う事なのかもしれません。
これは人間に自主性を与える事によって、より高度な精神構造を持つ生物に進化することを期待して、造化の神が、敢て本能を設定されなかったのではないかと思います。

だから子供ほど、無頓着に動物を遊びの道具にもするけれど、
それを人間性を高める事によって、他を労わり、不必要に苛めたりする事のない、出来れば他のために何かして上げる事を喜びとするような、そしてその他様々な美徳を備えた人間に育て上げるのが、造化の神の計画なのかもしれないなと思いました。

貧乏人が贅沢しないのは、したくても出来ないからかもしれませんが、富豪でも質素に生活している場合は、自分の自主的な倫理観で、質素な生活をしている事になるでしょう?

そういう意味で、出来るけれどやらないと言う事にこそ意味があるから、人間にだけ、忌まわしい事もできる能力《?》が、本能で制限されずにあるのかもしれません。

だから人間と生まれたからには、否応なくではなくて、自分の美意識を高めて、良い人生を生きよというメッセージなのかもしれませんね。

ちょっと荒唐無稽に過ぎましたかしら・・・・・

こんにちは^^

わこさんの考察にはいつも考えさせられます。うちはなるべく単純に、いえ、単純にしか書けないんですが・・(苦笑)

>自分の美意識を高めて‥
いいですね〜。美意識。自分のしている行為が、本当に「恥ずかしくない」のか?どこ出しても恥ずかしくないのか‥。「ぜ〜んぜん」って人もいるのかもしれませんが、少なくとも「善悪」‥ではなく、「美しい」かを意識するだけでも違ってくるのかもしれませんね。

ココロ様

コメント有難うございます。
そう言って頂くと助かります。
長く生きていると、あ〜でもないこ〜でもないと、色々な事を考えてきた様で、ついつい話が長くなってしまいます。(こういう話に水を向けられると、喜んでつい・・・・・)

人生には人の数ほど人生観が有るそうですから、自分の人生を生きて見る。
映画にも悲劇もあれば、喜劇もありますが、映画も最後まで見なければ値打ちは半減してしまうだろうと思います。
人生も、生まれてきたからには、何か命題を持って生まれて来たはずだから、それを見極めその役柄を最後まで立派に演じるというのが、生きる目的でもあるのかも知れないと思っています。(そして演じ切った時、無上の喜びとなるではないでしょうか?)

今の時代、辛い役柄を演じている方が多いようですが、人生は長いのです。
(人生は過ぎてみればあっという間だったと思うけれど、やっぱり長いのです。思い出してみると色々な事が有りました。)
こんな状態が何時まで続くのだろうと、絶望的になっていたことも有りましたが、いつの間にか自分を取り巻く状況は、全然違うものになっています。
若いときには想像も出来なかったくらいに、人生は色々な事を含んでいると思います。
それぞれの運命を、精一杯生きることによって、生き抜いたという達成感を得るのが、人生の醍醐味なのではないかと思っています。
私もこれからどんな人生が残っているか知る由もありませんが、自分の命題を生き抜いたぞ〜と思える総仕上げが出来れば良いがと思っています。(もうそう長くは無いでしょうから)

わこさん、夜分にこんばんは。^^

>私もこれからどんな人生が残っているか知る由もありませんが、自分の命題を生き抜いたぞ〜と思える総仕上げが出来れば良いがと思っています。

そうですね。私も胸に刻んでおきます。

>(もうそう長くは無いでしょうから)

ジョウダンやめてくださいよ〜。ふふっ。これだけは「笑」をつけてくださいませね。

ココロ様

草木も眠る丑三つ時のご訪問だったのですね。
私は多分白河夜船だった事でしょう。

優しい言葉を有難うございます。
でもそんなに悲観しているわけではないのですよ。
人の寿命は人それぞれで、私の場合はまだまだ遣り残した事だらけで、
長い長い道のりが残っているかも知れません。
常識的に言ったなら、もう人生の大半は終わっているだろうと言う事です。

長ければ良いわけでもなく、短ければ良いわけでもないと思いますので、
どうなるか自分でも楽しみな所です。

私には阿弥陀様のお傍の席が、ちゃんと待っているのですから。
(悪人正機って言いますでしょう?)

末法時代なのかなぁ

キリスト教の懺悔とは〜
宗教と時代背景と学問を 学べるという事〜蔑視〜偏見〜格差〜
悪人正機をプログ検索中です
善悪の判断の違いの人がいる。その 善悪の因果が 未来になる。心口意。悪いことの結果が恐ろしい。BATIとはあるのだろうか?
宿命 宿業 因果と償いと生死
宗教研究会(名前検討中
悪人とは 仏教の戒律を 守れない人と 聞いたことがあります。
現代社会で 仏教の戒律を すべて 守れる人が いるのだろうか?修行〜 他力本願 縁 自力本願
伝達 知識 浅識 専門 解釈 真実から
ネットの可能性は 〜。悪人正機について書かれているプログ 多いですね
煩悩即菩提 悩み多いと たくさん 祈る?
  • [2012/04/21 18:07]
  • URL |
  • 村石太ガール&村石太星人
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村石太ガール&村石太星人 様

コメント有難うございます。
悪人正機についての私の考えを述べてみます。
悪人正機(正客)というのは親鸞聖人の
「善人なおもて救わる いわんや悪人おや」というお言葉にもなっていますね。
悪人というのは自分は悪い人間だと考えている人の事で、
善人というのは自分は悪い事等、生まれてこの方一度もした事がないと、考えているような人という意味です。

この世の中に生きている限り、人は何かを食べていかねばなりません。
つまり何か生き物を殺して食べているのです。
自分は殺した事がないと言っても、誰かが殺したものを食べているのですから、殺させて食べているのと同じ事でしょう。
と言う訳で、不殺生戒を犯さずに生きる事は出来ません。
その他諸々、生きている限り様々な悪事とされていることに、身を染めながら生きているのが人間であるのに、
「自分は生まれてこのかた、悪い事などした事がない」と思っている人があるとしたら、その人は無反省な人であるという事になる。
「生まれてから一辺も嘘をついた事がないという人があったら、その人は嘘吐きだ」という話を聞いたことがあります。少なくとも記憶力が乏しいか、幼少時代の事を総て覚えておられるわけがない、ということに対する認識がない人ということになるでしょう。

阿弥陀様はそんな無反省な人間(善人)でも、お救いになるのだから、自分は悪人であると思い悩むような反省心のある人間を、お救いにならないはずがない。
というのが悪人正機の意味だと私は理解しています。

煩悩即菩提とかいろいろな宗教語がありますが私は自分流に解釈しているだけで、本来の意味がどうであるのかは知りません。
それで検索しましたら、素晴らしい答が用意されていました。
http://www6.plala.or.jp/miparo/bodai.html

人間は阿弥陀様(その名はそれぞれの土地や信仰によって、天照大神とかゴッドとかアラーとか天と違うけれどこれ等は皆同じ、唯一絶対者お一方をさす)の分身としてこの世に生まれてきた者だから、この世を去ったら阿弥陀様のところに帰るのだ。阿弥陀様と自分は一体なのだという思いを言葉にしたのが「南無阿弥陀仏」という言葉であって、
親鸞聖人は念仏というのは、これから浄土に行かせてもらう為に唱えるのではなく、
御恩報謝の念仏と言って、
阿弥陀仏の浄土に生まれることになっている事を感謝する、
その事を知って、感謝と喜びで唱えるのが念仏なのだと言っておられるそうです。
私の人生宗教観
http://dendrodium.blog15.fc2.com/blog-entry-1179.html
にも書いたのですが、
この世は常に苦娑婆と決まっているのです。
極楽浄土から私達は、この世という世界に謂わば遊びに来ているのですから、どんなに辛い事があっても、問題を立派にクリアし、耐え抜いてこそ意味があるのです。
途中で逃げ出したり、自分で恥ずかしくなるような事をやったりしたら、
せっかく人間世界に生まれることが出来たのに、残念なことをしたと、後で恥ずかしくなったり悔んだりする事になるでしょう。

人間は必ず死ぬものである。という事はポジティブに考えてもよいことなのかも知れません。
この世での使命(やり遂げたかった事)が終わったら必ず、
私達は阿弥陀様の元に戻れると約束された者であるという事なのですから。

追記
私はこのコメントを「チャップリンが語る愛の世界」
http://dendrodium.blog15.fc2.com/blog-entry-1119.html
に寄せられたコメントだと勘違いしてお返事を書いていましたが、ずっと古い記事に寄せていただいていたのですね。
お陰で、読み返して懐かしくなりました。

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