Dendrodium クルド人が目指しているという「民主的連邦主義」に思う

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クルド人が目指しているという「民主的連邦主義」に思う 

私の闇の奥「オジャラン 8」によると、
クルド人の目指しているのは、オジャランの唱える「民主的連邦主義」だそうであるが、
普通の国と「民主的連邦」との違いは何処にあるのだろう?
民主的連邦を求めるのは、国民国家のイデオロギー的基礎[Nationalism] [Positivist Science] [Sexism] [Religiousness]に問題があるからとの事である。
[Nationalism] [Positivist Science] [Sexism] [Religiousness]について説明しておられるところを下に引用させていただく。
(引用  紫色の字の部分)
[Nationalism]
国民国家の出現と共に、国家そのものが殆ど神聖化される傾向が出てくる。国家が神の位置に祭り上げられると、国家主義(愛国主義、国粋主義)は、いわば、その宗教にあたる役割を担う。しかしその背後にあるのは、権力が国民を自己の利益に利用しようとする意思である。それは社会のあらゆる分野に浸透していて、芸術も科学も社会意識も独立ではない。したがって、真正の知的洞察に達するためには、現代の国家主義的要素の根本的な解析が必要である。
[Positivist Science]
実証主義哲学のパラダイムは国民国家のイデオロギー的支柱の一つであり、それは愛国主義に炎を注ぎ、また、一種の新しい宗教のような形をとった世俗主義を支える。実証主義は物事の外見だけを尊重し、それを現実そのものとする哲学的特徴を持つから、可視のものだけを、古代の偶像崇拝的に尊重する傾向を生む。
[Sexism]
国民国家のもう一つの支柱はその社会全体に広がっている性差別制度である。
多くの文明社会システムは権力保持のために性差別を採用しきた。彼らは女性を安価な労働力として利用し、また子孫、特に男性の再生産の手段と看做し、つまり、女性は性的対象であり、また、商品でもある。女性全体を搾取される一つの国家と見ることも出来る。社会的な根をもつ性差別は、愛国主義と同じく、国民国家とその権力のイデオロギー的産物である。女性の奴隷化は、他のすべてのタイプの奴隷制、圧政、植民地化が行われる最も深刻に偽装された社会領域である。はっきり言って仕舞えば:資本主義と国民国家は、専制的で搾取的な男性の独占物である。
[Religiousness]
見た所、如何にも世俗国家のように振る舞うにしても、国民国家は、目的達成のためならば、国家主義と宗教の混ぜ合わせを利用することを躊躇しない。理由は簡単で、宗教が、依然として、社会的に重要な役割を果たしうるからである。とりわけイスラム教はなかなか敏捷である。ある場合には愛国心の一部を担う。イランのシイア・イスラムはイラン国の最も強力なイデオロギー的武器である。トルコではスーニ・イデオロギーがそれに当たる。


又言われる、
 国民国家はその組成的基盤である国民を超越するから、それはその政治的機関を超えた一つの存在となる。それは、その法的、経済的、宗教的構造のみならず、そのイデオロギー的な基盤を擁護するためのそれ自身の機関を必要とする。その結果生じる拡大する一方の民生と軍事の官僚制度は高くつき、しかも超越的な国家そのものを維持することだけに役に立ち、その事がまた、官僚を人民の上に置くことになる。
 近代ヨーロッパ期には、国家は人間社会のすべての層にその官僚制度を拡大する全ての手段を手に入れてしまった。それは社会の全ての生命線を汚染する癌のように成長した。官僚制度と国民国家は一方が欠ければ存在し得ない。国民国家が近代資本主義体制の背骨とすれば、官僚制は紛れもなく自然的社会を閉じ込める檻である。その官僚制度は国家システムが円滑に機能することを保証し、物資の生産の基盤を保証し、さらに、実在の社会主義的国民国家であれ、商業主義的国民国家であれ、主だった経済活動関係者たちの利益を保証する。国民国家は資本主義の名において社会を飼いならして、生活共同体をその自然な基礎から疎外させてしまう。社会的問題を突き止めてそれを解決しようとする問題解析はこうした連携をよく考察する必要がある。


もしこの様な政体が出来たら素晴らしいだろうなと思う反面、
その素晴らしい政体は一体何年間くらい有効なのだろう?との疑念も湧いてくる。
現在のクルド人は周りの様々な勢力から圧迫され続けているから、
殆どの人々がこの状態から抜け出せるならと、
一つの目的の為に力を合わせているのだろうが、
現在の希望が実現した暁に、暫らくは住民皆で喜び支えあう社会が出来るかも知れないが、
外敵が無くなったら、大抵の場合、
その社会の中で好い顔になろうとしたり、
一般庶民より贅沢が出来る地位になろうとしたりと、
様々な欲望が渦巻き出して、
理想の社会だった筈の「民主的連邦」でも、
気が付いたら、
連邦間や住民の間で、新しい格差が出来始めているのではないだろうか?

その格差は第一世代では遠慮がちなものであろうとも、
第2世代第3世代ともなると、
それは生まれながらの格差となり、
身分制度のようになっているかもしれない。

国の規律が緩やかな分、権力者の恣意が幅を利かせる部分が多くなって、
もしかしたら、中世の世界のように暗い世界となっているのかもしれないという、
縁起でもない想像も沸いて来る。

この世の中は、人間の倫理道徳の水準が上がらない限り、
どんな制度を用いても、
70~80年くらい経ったときには、元の木阿弥にならざるを得ないものなのではないだろうか?
だからこそ人類は、それぞれの土地でそれぞれに「道」を説き、
人間の質の向上を図ってきたのではないだろうか?

今より良い社会を作るためという大義名分があっても、
国を混沌とするような殺し合いをして迄、理想郷を創ろうとするのは、
罪を作るだけであって、夢見たほどの効果を齎す事はないのではないかと私は思う。

しかし、オジャランのこういう理想の提示が、
今酷い逆境にあるクルド人達に、
現状を改善させる力を与えているのも事実なのかも知れない。
その力の結集がクルド人の立場を、劇的に改善する動力になるかも知れない。

今、行き詰りかけている資本主義国日本にも、
現状打開の為の何かが、
国民を奮い立たす事が出来る様な何かが、描かれないかと期待されるところであるが・・・・・

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