Dendrodium イスラム教とはどんな教えなのか?

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

イスラム教とはどんな教えなのか? 

今イスラム国というものが世界を騒がしています。
私はイスラム教というものがどういうものであるか殆ど知りませんでしたので、
好奇心から検索してみましたら、コーランを読誦するというPDFがありました。
作者も何も分かりませんが、仏教関係者の講演のようです。
イスラム教も仏教もキリスト教も、創造主を尊崇している宗教のようです。
「一切の神聖なるものは真なる神の化身である。エホバの身で入信した場合、エホバの姿で現われ、アラーの身で入信した場合、アラーの姿で現われる。仏の身で得度した場合は、仏の姿で現われる」という事のようです。
では以下にその講演録のコピーを掲載させて頂きます。

謹んで「コーラン」を読誦する
本日、実に得がたい機会となりました。ここにおいて、「謹んで『コーラン』を読誦する」という講題を提起しました。この題を選んだのは、この数年来、私が常日ごろ、『コーラン』、『新約聖書』、『旧約聖書』を読誦しているからです。経典に収められた幾つかの経文は簡潔で、要点を押さえており、益するところが多く、たいへん啓発され、さらに深い境地を会得しました。そこで、私が『コーラン』を読んで得たことを、皆さんと分かち合いたいと思います。皆さん、どうかご教示のほど、よろしくお願いいたします。
『コーラン』の学習では、最も重要なのが「六信」といわれるものである。これが学ぶ際の根本となる。在俗の法であれ、聖職者の法であれ、すべて信仰の基礎の上に打ち立てられたものである。もし信じなければ成就することはできない。その「六信」とは次の通りである。
「アラーを信ぜよ。天使を信ぜよ。コーランを信ぜよ。使徒を信ぜよ。来世を信ぜよ。終末の日を信ぜよ。」

一、「アラーを信ぜよ」
「アラー」はアラビア語で、一般に「創造主」または「主」と翻訳されている。「宇宙の創造者」という意味で、『旧約聖書』で説いている「神は宇宙の万物を創造した」とほとんど同じ言い方をしている。私は、数多くの異なる宗教の指導者たちとともにこの問題を話し合い、「一切の神聖なるものは真なる神の化身である。エホバの身で入信した場合、エホバの姿で現われ、アラーの身で入信した場合、アラーの姿で現われる。仏の身で得度した場合は、仏の姿で現われる」と提起した。この考え方を述べると、皆が同意したが、これは非常に得がたいことである。仏教の経典では宇宙万有の本体を説いており、仏は常に、「唯一心所現、唯識所変」(すべては心の現われにほかならない。一切の事象はアーヤラ識から変現したもの)と説いてきた。また、「一切法従心想生」(あらゆるものは心の想いより生ずる)とも説いている。それぞれの宗教で説いている「神」または「エホバ」、イスラム教の「アラー」、仏陀の説く「法性」は唯一であり、二つとない。『華厳経』は「一即是多、多即是一」(一が即ち多、多即ち一である。一と多は相即している)と説いている。したがって、アラー、エホバ、神、法性はあまねく、いかなる時もいかなる所にもいらっしゃる。遍法界[へんほっかい]虚空界のあらゆる国土、衆生はみな、私たち自身の心が姿を変えて現われたものである。私たちの心と十法界の衆生、諸仏如来はエホバ、神と同一の心であり、同一の本性である。これを仏教者は「法身」[ほっしん](仏の宇宙身)と称す。

二、「天使を信ぜよ」
主なるアラーは、有形の姿はない。アラーは物質でもなく、精神でもない。しかも精神、物質はみな、姿を変えて現われたもの。「天使」はすなわち、アラーの化身であり、大乗仏教でいう「報身」[ほうじん]である。報身は自受用[じじゅゆう]であり、他受用[たじゅゆう]である。「自受用」とは心性が本来具えている真実の智慧で、絶えず自己を究極の円満な境地に達しようと、引き上げようとする。「他受用」は人を救済する上根(素質や能力が優れている者)の大菩薩で、自己を引き上げ、究極の境地に達している。報身は遍法界虚空界にあり、その身を現わさないところはない。

三、「コーランを信ぜよ」
仏教、道教、儒教のすべての教典、および『コーラン』、『新約聖書』、『旧約聖書』は人倫の道徳を重視している。いずれも親に孝行を尽くし、師を尊べと説いている。すべての聖なる教えは人倫の道の学びであり、宇宙間の一切の人と事物を尊敬する。すべての宗教の経典は神聖な教えである。「道」は大自然の法則であって、誰かの学説や発明したものではない。私たちの学びは道と呼応することであり、道と呼応することが徳である。人は道徳を奉じることはできるが、全宇宙が本来、調和がとれて一体であることは、経典を学び、体験することで、了解[りょうげ]しなければならない。

四、「使徒を信ぜよ」
仏法と対比させると、菩薩、阿羅漢、および各宗派の祖師や高僧は使徒となる。イスラムの『コーラン』ではアラーは主であり、天使と使徒は主の応化身[おうけしん](仏の真の体から変現したもの)である。応化身は、この世で教化を行ない、苦難するあらゆる衆生に救いを与える。イエス・キリスト、モーゼ、マホメット、釈迦、孔子たちは使徒である。この意義を理解すると、仏門の法師、阿闍梨、カソリックの神父、キリスト教の牧師、イスラム教徒のアホン(布教師)を含むすべての宗教の指導者と伝道師が主の使徒であることが分かる。
もし、広く解釈すれば、「使徒」は実のところ、一切の衆生を含む。大乗仏教では私個人は凡夫だが、一人として使徒でないものはいない。孔子は『論語』のなかで「三人の者が同行すれば、その中には必ず、何か学ぶべきものを持っている人がいる」と述べている。三人、自分を除いてだが。私たちがすべての人とつきあうとき、善悪の二大分類は私の師となる。善人の善心、善行を学ぶべきである。悪人の悪念、悪行は見て、聴いて、つまびらかに反省し、自分に悪念悪行があればこれを改め、なければさらに努力を重ねなければならない。したがって、一人として使徒でない者、師でない者はいない。真の誠と慎み深い心で臨み、学ぶべきである。細心に観察しさえすれば、いかなる時もいかなる場所でも、いかなる境地であれ、修学のよき環境であり、私たちが煩悩や習気[じっけ](煩悩の潜在余力)を洗い流し、自己の智慧と徳の働きを増大させて、善き結果を成就させるのを助けてくれる。したがって、使徒は主の応化身であり、他受用身なのである。

五、「来世を信ぜよ」
すべての宗教の経典では、衆生にはみな、前世と来世があり、これが輪廻の現象であると説いている。人が来世を信じれば、必然的に自分の現在の考え方や言葉遣いが控えめになる。なぜであろうか。来世があれば、私のなしたことが将来、因果の報いとなり、それを受けなければならないからである。「人は一生のうちで、偶然に発生した事など一つとしてない」とアメリカの予言者、エドガー・ケーシーが述べている。前世に撒いた種が何らかの原因となり、今生で因縁のめぐり合わせによって、因果の報いが現前に現われる。善因ならば善き縁によって善果となる。悪因ならば悪しき縁によって悪果となる。衆生は結果を畏れ、菩薩は原因を畏れる。苦の報いや逆境は恐れるべきではない。最も重要なことは自分が境地を転換できることである。仮に、他の人が自分を誹謗や侮辱したり、陥れたりしても、私は喜んでそれを受け入れることができる。報復しようという考えはない。むしろ、感謝の気持ちが湧く。何に感謝するのか。その人が私の業障を消し去り、境地を高める助けをしてくれるからである。しかも、誹謗した人に対しては、日常の修行のときに特に回向する。その人は自らが不善の業を造ったことで必ず悪の報いを受けるので、功徳を回向することによって、その人が悪道に堕ちても、その時間が短く、苦しみも軽くなるようにと願う。私が将来、仏となって、まずその人を救わなければならない。前世、現世、来世があると信じることは、人によって因果が異なるということを信じることである。

六、「終末の日を信ぜよ」
「終末の日を信ぜよ」とは、一切の衆生はみな、共通の業[カルマ]に支配されて因果の報いがあると信じることである。私が最近、新たに了解[りょうげ]したことは「終末の日」とは、必ずしも地球または人類が破滅することではなく、倫理道徳が破滅することを指すということである。それは、なぜであろうか。倫理道徳は大自然の規律、法則である。一切の衆生はみな、これに順応しなければならず、違反はできない。衆生はみな、互恵し、補い合わなければならない。倫理道徳に背き、互いに害を及ぼすと、共に滅んでしまう。現代の社会では、親子が殺しあうような事件が発生している。夫婦や兄弟が殺しあう、同学や同僚が殺しあう、数多くの、人倫に背く事件が起きている。これらはみな、終末の日を示す不吉な兆しである。今は、気に食わない人を見ただけで殺したり、自分の好き放題をする。人々はこの社会で生活しているが、安全感がなく、恐怖のなかで生きている。これがすなわち終末の日である。原因は、倫理道徳の教えが全くなくなってしまったからである。
今日の社会教育は、メディアやテレビ、インターネットが教化を主宰している。現在、これらのメディアが伝えるのは色情、暴力、殺人、窃盗、不倫、妄言で、将来、全世界、この社会全体には色情や暴力があふれ、非常に深刻な問題となる。これは万人に共通の業[カルマ]である。この共通の業[カルマ]とは人々が倫理道徳、神聖な教えを放棄したことである。したがって、すべての宗教は教育に重きをおき、科学技術を善用しなければならない。もし、宗教という形式があるだけならば、経典や教義の教えがないので、「終末の日」は変わりなく、訪れるだろう。
「アラーに深く帰依し、主の恵みと慈しみを祈る」
この言葉は敬虔な祈りの言葉で、アラーに恵みと加護を求めている。以下で述べるのは、アラーが私たちに修学させる、基本となるすべての要綱である。

一、「善を行ない、過ちを改めよ」
人の性はもともと善であり、善は、その性が徳である。しかるに、私たちは神聖なる教えから遠く離れて、環境が深刻に悪化していくなかで、不善に染まり、ありとあらゆる悪事をし尽くした罪人となってしまった。地獄や苦の報いから逃げ出すことは難しい。そこで、今、アラーに加護と助けを求め、過ちを改め、善を行なうことを教えたまえ、と祈る。また、愚かなために、是非、善悪を判断することが難しい。そこで、アラーは聖典を示し、善悪の基準を経典に従うようにさせた。コーランで述べている善悪の基準は、はっきりしており、私たちはその教えを奉じて行なわなければならない。

二、「教えに従う」
過ちを改めた後、常に経典を読み、常に講話を聴かなければならない。経典の意味に通じて、よく理解し、生活、仕事、物事の処理、人に対するなかで実践する。こうしてこそ、仏の弟子であり、アラーの信者である。

三、「禁戒を犯さない」
コーランでは私たちに、必ず行なうべきことや絶対に行なってはならないことを告げ、真剣に信奉するようにと求めている。コーランの戒律は国家の法律に等しい。すべてアラーが禁止したものは決して背くことはしない。例えば、無辜の者を殺さない、他人の財物を奪わない、人を奴隷の身に陥れることをしない、人の名誉を傷つけることをしない、他人を悪く憶測しない、礼拝のつとめを行なう、喜捨を行なう。中国のムスリムは五功五典三徳十行などの修功を信奉している。
儒家の「智仁勇」は大智、大仁、大勇である。私たちが学ぼうとするとき、最も重要なことは、老師の教えを信奉し、それに従うことである。「教えを信奉し、従う」は前に述べた「使徒を信ぜよ」の意味である。これは「智」であり、真実の智慧である。「善を行ない、過ちを改める」ことができるのは、「仁」である。「禁戒を犯さない」は「勇」である。大智、大仁、大勇は儒家の三つの達徳(古今に渡ってふみ行なうべき道徳)である。したがって、この三句経の経文はすなわち、「三徳の要め」であり、自己の智慧と徳行を成就させることである。
仏教とイスラム教の最も基本とする教条[ドグマ]はみな、同じである。「殺生せず、盗まず、邪淫せず、妄語を言わず、二枚舌を使わず、ざれごとを言わず、悪口を言わず、貪らず、怒らず、迷わず」が基本の教条[ドグマ]である。この教えにのっとり、真剣に努力し行なわなければならない。

四、「紛争を和解させる。事を終らせ、人の心を安らかにさせる」
現在の社会では多くの人たちが誤解をしている。イスラム教徒は過激分子で、いたるところで騒いでいると思っている。『コーラン』ではこれを絶対に禁止していることを知らない。『コーラン』では確かに、「聖戦」(ジハード)について幾度も言及している。しかし、聖戦は自衛のための戦争である。外部からの侵略に対して、ムスリムは抵抗しなければならない。決して、ゆえなく戦争や騒動を起こすのではない。したがって、イスラムの信者がみな、『コーラン』のアラーの教えを理解していれば、何の理由もなく、他者を傷つけることなどあるはずがない。たとえ、報復しなければならない恨みがあったとしても、無辜の者を傷つけることは決してない。これはアラーの慈悲である。

五、「賢き善き人に親しみ、邪悪から遠ざかる」
これは私たちが常々口にする、悪を断ち、善を修め、功徳を積むということである。最も重要なのは善き人に親しく近づき、邪悪から遠く離れることで、これは自己の修養と徳行を増進せる要めである。邪悪とは何か。テレビ、新聞、雑誌に掲載されているものはすべて暴力、色情、殺人、窃盗、邪淫、妄語であり、私たちはこれらから遠く離れなければならない。私はすでに四十数年テレビを見ず、新聞を読まず、雑誌も読んでいない。「邪悪から遠く離れている」ことを真実に実践しているのである。
「賢き善き人に親しむ」には、聖人や先賢の経典はすべて、賢人であると知る必要がある。私は『コーラン』を読んで、マホメットに親しんだのである。『新約聖書』と『旧約聖書』を読んで、モーゼとイエスに親しんだ。仏教の経典を読んで、釈迦牟尼に親しみ、もろもろの大菩薩や祖師、大徳に親しんだ。儒家の書を読んで、孔子、孟子に親しみ、道家の書を読んで、老荘に親しんだ。私は毎日、聖人や先哲の教えを信奉し、従って、十善業道を不退転で実践し、人倫の道に従っている。だから、法悦充満して、心には煩悩もなく、憂慮すべきことや気がかりなこともない。物質的には、生活できればそれでよいのだから、そこに楽しみを求めようとは思わない。

六、「常にアラーの尽きない慈愛を心に抱く」
「常に心に抱く」とは主とともにあることである。「慈愛」は、仏教でいう「慈悲を本となし、方便を門となす」ことである。イスラム教では「アラーはまごうことなく慈悲深いお方である」、『新約聖書』と『旧約聖書』では「神は民を愛したまう、主は民を愛したまう」と説いている。したがって、慈愛は真実、永遠であり、宇宙の大徳であり、私たちの本性の徳の働きである。しかしながら、現在私たちの慈愛は煩悩によって邪魔されている。「常にアラーの尽きない慈愛を心に抱く」とは、常に自らの性がもともと具えている大徳を抱くということである。私たちは自らの性がもともと具えている大徳の大慈大悲を真実、実践しなければならない。たとえ、身内の前世の報いによって殺されそうになっても私は相手に対して、常に尽きない慈愛を抱く。なぜであろうか。それは、私が、相手と私が一体であると知っているからである。経典がいう、私たちの主とあなたがたの主は一つなのである。相手が私と対立しても、私は相手と対立してはいない。対立がないのは、了解[りょうげ]しているからである。対立している人はまだ了解[りょうげ]していないからである。
私のお話は、本日はここまでとします。ごく簡単に、『コーラン』の中の最も重要な句を取り出して、私の学びの報告としました。大方のご教示をお願いする次第です。


Comments

Comment Post















管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

Trackback URL
http://dendrodium.blog15.fc2.com/tb.php/2175-a0ef9f53

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。