Dendrodium 69回目の原爆記念日

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69回目の原爆記念日 


Listening:<記者の目>広島原爆、500メートル圏内からの証言=高橋咲子(広島支局)
2014年08月06日
 ◇核の残酷、人の強さ

 広島原爆で、住民らのほとんどが即死したと言われる爆心地から500メートルの圏内。広島大学原爆放射能医学研究所(原医研、現広島大原爆放射線医科学研究所)は、1972年時点で圏内で被爆し生存していた78人を追跡調査し、身体的影響だけでなく社会的、心理的な側面を明らかにしようと研究を重ねた。毎日新聞はこの夏、原医研が72〜85年に生存者から聞き取ったり収集したりした録音テープを入手した。証言、そして新たな取材から見えてきたのは「生きる基盤」を断ち切った原爆の残酷さと、それでもなお精いっぱい生きようとした人たちの姿だった。

 ◇断ち切られた生命、営み、絆

 まず驚いたのは生々しい8月6日の光景だ。爆心地から約490メートルの電車内で被爆した23歳の軍人は、衝撃を感じ身を伏せた後、とっさに電車から飛び降りた。電車は真っ暗な中を燃えながら30メートルほど走って止まった。光を取り戻す中で見えてきたのは、無くなった街と3倍にも膨れた馬だった。別の証言では「毒ガス攻撃だ」「まだ爆音が聞こえる」と口々に叫び、パニックに陥る人たちもいた。

 旧日本銀行広島支店など堅固な建物内では、500メートル圏内でも助かった人が多かったが、路上や木造家屋の中でも命を取り留めた人がいた。県外から仕事で来た生命保険外交員の45歳男性は時計もめがねも吹っ飛び、ベルトだけが残ったと証言した。爆心地から500メートルの地点でも秒速200メートルの爆風が襲い、皮膚の表面温度は500〜600度となったというから助かったのはまさしく奇跡だ。

 原爆の被害は8月6日だけのことではない。強い放射線は一生被爆者を苦しめ続けた。また、家族や慣れ親しんだ地域との絆を断ち切ったことを忘れてはならない。

 爆心地から約410メートルにある本川国民学校で11歳の時に被爆した居森清子さん(80)=横浜市=は両親、弟と離ればなれになり、日ごろ付き合いのない親戚に引き取られた。家族に可愛がられ、父親から「大学に行かせたい」と言われていた居森さんだが、親戚からは疎まれ、義務教育卒業後は住み込みで美容院に働きに出された。

 戦後40年を過ぎた頃、かつてのご近所さんから両親が息を引き取った場所を教えてもらった。その時の気持ちを尋ねると「別に何とも」と素っ気ない答えが返ってきた。食い下がる私に、居森さんは「いないものと思ってきたから」と言った。自分が11歳の時、家族の行方が分からないまま地元から放り出されたら何ができるだろう。どんな気持ちで頭から家族のことを追い出し、身を粉にして働いてきたのか。胸が締め付けられた。

 ◇苦しみ抜いた末、前向く意思こそ

 20代で被爆した女性のめいの証言も残っていた。50歳になる前に亡くなった女性は生前二つのかつらを大切にしていた。一つはよそゆき、一つは通勤用。日曜日ごとにきれいに洗い、カールをセットした。女性は髪の毛がないと近所の子供たちにバカにされ、入退院を繰り返して鉄道に飛び込むことも考えたという。

 それでも勤めを続け、倹約し家を建てた。めいを可愛がり、駄菓子屋で毎日小さなお土産を買ってきた。被爆の影響で聴力を失ったが、テレビの字幕付き洋画を楽しみ、同僚と旅行にも出かけた。証言から浮かび上がったのは、精いっぱい「よく生きよう」とする女性の姿だった。

 それぞれに共通するのは厳しい環境にありながら、自らの意思で前を向いて生きようとする姿だ。苦しみ抜いてたどりついたその生き方に、人間の根本を見た気がした。

 原医研の研究者たちにも触れたい。研究の中心メンバーだった故・湯崎稔教授は生存者の保証人になったこともあった。テープなど研究資料を保管していた医師の鎌田七男名誉教授はこまめに相談に乗るなど退職後も生存者を支え、居森さんが昨年、一時危篤になった際は広島から横浜まで駆けつけた。その姿勢は「研究はするが治療はしない」と広島の人から嫌われた、米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)の対極にある。

 親兄弟を一瞬にして失い、財産を奪われ、慣れ親しんだ土地を破壊される。多重がんにむしばまれ、生涯、病への恐怖におびえ続ける。鎌田名誉教授は「これこそ核兵器の非人道性だ」と指摘する。

 広島で取材をするまで、被爆者とは「悲惨な体験をした人」というイメージだった。だが、今では「原爆を生き抜いた人」だと思う。戦後、大国が核兵器を持ちながら使用できなかった理由の一つに、被爆者の存在があると言われる。彼らがいなくなった未来のためにも、できるだけ多くの被爆者の「人生」を記録に残したい。


福島であんな原発事故を起こしておいて、まだ原発の再稼動をしようとしている政府が・・・・・
とか、核拡散防止条約にいつも反対している政府が・・・・・(こちら
等と思って、私は最近は原爆記念行事に、ちょっと褪めた思いを持つようになっていたけれど、
この記事を読んだとき、
そんな日本政府だからこそ、日本は原爆記念行事を続けねばならないのかも知れないと思ったのだった。
もし原爆記念行事まで取りやめてしまったら、それこそ政府に歯止めが掛からなくなってしまうかもしれない。

米軍によって広島や長崎に原爆を落とされたことと、
東京や大阪etcが米軍によって絨毯爆撃された事と、どう違うのかと言えば、
1度の爆撃による死者の数もさることながら、
一番大きな違いは生き残った人々の、被爆後何十年間も続く放射能被害の深刻さなのだと思う。
その事を世界に忘れさせないためにも、原爆記念行事は続ける意味があったのだ。

原爆被爆記念行事を続けながら、日本は福島で大事故を起こし、日本に三度目の放射能被害者を出してしまった。
「三度(みたび)許すまじ」と歌っていたのは、放射能被爆の事ではなかったのだろうか?
それなのに、原爆記念日には今でも白々しく「三度許すまじ原爆を」と歌っている。
それを思うと、日本政府のやる原爆記念日なんて偽善と、近年私は白けた気持ちになっていた。

日本政府は原発推進と原爆記念行事の両方を続ける政府である。
この矛盾した行政を平気で続ける総理大臣を、
原爆記念行事に毎年出席させ続ける事によって、
私達は総理大臣に、少なくとも放射能被害に目を瞑る事は許されないという圧力だけは、かけることが出来るのかもしれないと思うようになったのだった。

本音を言えば、70年近く前の原爆記念日はもう終わりにして、
福島原発の過酷事故を忘れない日を新たに設定し、記念行事を始めた方が良いのではないかと思っているのだけれど・・・・・
(仏教でも法事は50年で終わりにする事になっているのだし・・・・・)

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