Dendrodium 「疎外と不平等の経済に否」を唱えるべきです。その経済は殺します。と訴えられるローマ法王

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「疎外と不平等の経済に否」を唱えるべきです。その経済は殺します。と訴えられるローマ法王 

ローマ法王最初の「ミッション・マニフェスト」喜びの福音のスペイン語からの翻訳を読ませて頂きました。
59に区分されたうち50くらいまでは、ローマ法王がこのように厳しい行動にでられる根拠について書いておられるのだろうと感じました。(教会内の反発を抑えねばならないのかと想像しました。)
53,54、55,56、57の記述を読んで、ローマ法王は本気で現在の世界情勢を憂えておられると感じました。
良くぞここまで言って下さった。
経済界の中でもキリスト教徒の人々に動揺が走れば、何かが変わるきっかけになるのではないかと期待した次第です。
以下に53、54、55,56,57の文章を載せさせていただきます。

53 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>疎外の経済に否を
 「殺してはならない」という戒めが人のいのちの価値を保つためにはっきりとした限界を据えているのと同様に、今日、「疎外と不平等の経済に否」を唱えるべきです。その経済は殺します。道に住むような状況にある老人が寒さに凍え死ぬことがニュースにならないなどということはあってはならないのです。それは、袋の両端のうち一つが落ちてしまっているようなものです。それは搾取です。今日、誰もが競走のゲームと、力あるものがより弱いものを食いつぶすような弱肉強食の法則の中に入ります。この状況の結果として、人口の多くが、仕事もなく、地平線も見えず、抜け道も見えずに除外され、疎外されているのが見受けられます。人間を、自身消費の財産、使った後捨てられるようなものとして見做しています。わたしたちは「使い捨て」文化を始め、しかも促進させています。もはや単純に搾取や抑圧の現象を扱うのではなく、なにか新たなことをも扱うのです。疎外によってその根そのものにおける、自分が生活している社会に留まるということが影響を受けているのです。というのは、もはや中の下の方、郊外に力なくいるのではなく、外にいるからです。疎外された人々は「搾取された人々」なのではなく、捨てられ、「余った物」にされているのです。

54 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>疎外の経済に否を
 この文脈で、まだ「トリクルダウン(訳者注、Wikipediaより『富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透=トリクルダウンする』とする経済理論または経済思想)」の理論を守ろうとする人がまだいます。これは自由経済によって有利となる経済成長すべてが、自ずと世界における社会の公平と招き入れを呼び覚ますことができるようになる、という理論です。この意見は、実践によって確認されたこともなく、経済力をもつ人々の善意、そして支配的な経済システムの聖化されたメカニズムへの粗野で未処理の信頼を表現しています。一方で、除外された人々は、待ち続けているのです。他の人々を除外する生き方を保つことができ、その利己的理想をもって期待をもたせることができるために、無関心のグローバル化が発展してきました。ほとんど警鐘を鳴らすこともなく、わたしたちは他の人々の叫びを前に同情することもできなくなり、もはや、まるですべてが自分たちとは関係のない他者の責任であるかのように、他の人々の悲劇を前に泣くこともなく、彼らの世話をすることに関心も示さなくなっています。いい生活に留まる文化は、わたしたちを麻痺させ、まだ買っていないものを市場が提供すると落ち着かなくなる一方、他のそうした命は可能性の不足のために滞ったままでいる、そうしたことがわたしたちには、わたしたちを全然変えることのないただのショーであるかのように見えるのです。

55 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>金銭という新しい偶像に否を
 この状況の原因のひとつは、わたしたちが金銭との間に作り上げてきた関係のうちに見出されます。もはやわたしたちと、この社会の上に立つ支配力を平和裏に受け止めています。わたしたちが通る経済危機は、その起源には深い文化人類学的危機があることを忘れさせます。それは人間存在の優先性の否定です!わたしたちは新しい偶像をいくつも作って来ました。古代における金の牛への礼拝は(出32章1-35節参照)、新しく、金銭へのフェティシズム(偏愛)とほんものの人間的な顔つきや目的性のない経済の専制における非情なバージョンに見受けられます。世界危機は、財政や経済に影響を及ぼすものですが、その不安定感、特に、人間存在をその必要性のうちのたった一つの局面、つまり消費に狭める、その文化人類学的指導の重大な欠如を表しています。

56 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>金銭という新しい偶像に否を
 わずかな人々の収入が指数関数的に増えていく一方、ほとんどの人の収入はますますその幸せな少数の人々のよい暮らしからは程遠い所に残されています。このアンバランスは財政市場と財政投機の絶対的自律を守ろうとするイデオロギーからきています。そこから、共通善のために監視をする担当である、国の抑制の権利を否定するようなことになるのです。その法律と決まりを、一方的で容赦ない仕方で課す、しばしば仮想の、目に見えない新たなる専制が確立されます。しかも、債務とその利息は国々を経済的な実行可能な可能性から引き離し、その市民を実質の購買力から遠ざけるのです。これらすべてに、世界的次元を仮定する、分岐された汚職と利己的な脱税が加わります。権力と所持の渇望は限界を知りません。このシステムにあっては、利潤を増加させるためにすべてを巻き込む傾向にあり、環境などのように、脆弱なものなら何でも、絶対的なルールとなってしまった、神格化された市場の関心を前に無防備になっているのです。

57 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>奉仕する代わりに統治する金に対して否を
奉仕する代わりに統治する金に否を

 この態度の裏には倫理の拒絶と神の拒絶とが隠されています。倫理はしばしばあざけりに満ちたある種の軽蔑の眼差しを持って見られます。それは、逆効果、あまりに人間的であると捉えられています。なぜなら金銭と権力を相対化するからです。このことを脅威として感じています。というのも操作と人の堕落を断罪するからです。要するに、倫理は市場のカテゴリーの外にある献身的な応えを待つ神へと導くのです。このために、もしそれが絶対化されているならば、神はコントロールできず、操作できず、さらには危険です。それは、人間をそのまったき実現とあらゆるタイプの奴隷状態からの独立へと呼びかけるからです。倫理は―― イデオロギー化されていない倫理は――より人間的な社会バランスと社会秩序を作ることができるようにします。この意味でわたしは、国々の財政の専門家たちと政府の人々が、昔の知恵者の次のような言葉を熟慮するように、と鼓舞します。「自分の財産を貧しい人たちと分かち合わないことは、彼らから盗むことであり、彼らの命を奪うことであります。わたしたちが持っている財産はわたしたちのものではなく、彼らのものなのです」[55]。

Comments

真の

今晩は。
数少ない真のキリスト者ですね。

残念ながら、
聖書のみ言葉に反することが好きな
自民党の幹事長とは、さすが、180度違います。

仕えられたイエス。
キリスト者だが、選挙の時だけ米つきバッタ。

馬様

コメント有難うございます。
数少ないクリスチャンがローマ教皇になられたとは、奇跡的なことですね。

ところで石破茂氏はクリスチャンだったのですか!!!

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折鶴の裏に書かれている文字は???

今日、世界中を駆け巡った日本発のニュース・・・・「日本国総理の靖国参拝」 まぁね、この人のやることにもういちいち書くこと自体が馬鹿らしいし、財界のお偉いさん方も困った顔でノーコメントだそうだから、オラなんかが書くことはない。それでも支持率50%なんだそう
  • [2013/12/26 17:34]
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  • f-kafkappaの日記〜緑と青の風にのって〜 |
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