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私の人生観・宗教観 

日本人の宗教観について批判しておられる記事を読んだので、
日本人らしいと思われる私の宗教観・人生観を書いてみたくなった。
人間が死んだら極楽へ行くということは、極楽(阿弥陀様のおわす所)がこの世の生物の生まれ故郷だからだと思う。(これは私なりの考え方かも知れないけれど・・・・・)、
阿弥陀様(世界中ではそれぞれ別の呼び名を奉っているが、要するに世界の始まる前から存在する唯一絶対者)は全知全能で何でも出来るけれど、
唯一絶対という事はたった一人であるという事で、幾ら極楽であっても、無性にさびしいと思われたのではないだろうか?
それで阿弥陀様はその全知全能を傾けられて、霊妙な調和の下、生成化育するこの世を創られたのだと思う。

そこで阿弥陀様は人生ゲームのようなものを自らの分身で始められた。
取り組むべき課題を設定し、それをクリアしていく人生を生きるシステムを作られた。
困難を克服する為には、この世に困難が必要となるので、
克服せねばならない困難を設定したり、
愛し合うために男女に分け、家族を形作ったり・・・・・

阿弥陀様の分身は、この世に生まれる時人生ゲームを迫力あるものとするために、
自分が全知全能の絶対者の分身であることを、総て忘れてしまう設定の下、この世に生まれ出てこられる。
分身と言うことは、阿弥陀様ご自身と同じ性質能力を持っているという事なのだけれど、
初めからそれがわかっていては、どんな困難を克服しても達成感は沸かないだろうし、
他人と見えても自分自身であると分かっていたのでは、愛し合うと言う感覚とはちょっと違ったものになってしまうだろう。
という訳で人は自分の前世を、完全に忘れるように設定されている。

だからこの世でどんな困難にあっても、私達は逃げ出(自殺)したりしたらいけない。
それではせっかくこの世に生まれてきたのに、得られたはずの達成感を得ずじまいになってしまう。
私達は絶対者の分身だから、真に心を静めることが出来たら、
うっすらと全知全能の絶対者を思い出す事が出来き、能力も使うことが出来る。
もちろんこの世を円滑に運用するために創られた、物質の原理を守った上でのことだから、
その能力には如何しても限りがあるけれど、
その制限があるということが、この世を切実なものとして面白くする醍醐味のひとつなのだから、
絶対者は物質の法則等この世における制限を、はずすことは殆どされない。

この世で予定していたゲームをクリアしたら、人は自然とこの世から去る運命に見舞われる。
どんな去り方をしたとしても、行き着く先は故郷・阿弥陀様の浄土である。
この世で修行したからと言って、人間が偉くなったり、悪いことをしたからと言って、地獄に生まれることなどない。
人はこの世で極楽では味わえない体験をするために生まれてきた、絶対者の分身なのだから、
始めから全知全能であり、菩薩様の慈悲心を持っている。
只この世の人生ゲームのために、総てを忘れているだけである。
そしてゲームに勝ちたいが為に、愛を忘れ人に迷惑をかけることを厭わないという間違いを犯すものも出てくる。
そのものたちは故郷(極楽)に帰ったとき、「私とした事が・・・・・」と苦笑することになるだろうが・・・・・

輪廻転生については、
もう一度人生ゲームをしたい者は、もう一度この世に生まれてくるだろうし、
少々きついゲームをしたので、暫らく休んでいたいと思う者は、暫らくはこの世に生まれることはないだろう。
人は自分の侵した罪にさいなまれて、どうせ自分は地獄に落ちるしかないのだから等と、自棄になってはならない。
自棄になると、ますます間違いを犯してしまうことになるから。

この世の中を充分堪能して、出来れば周りの人と愛し合う関係を築くという楽しみ方をして生きて行きたいものである。
しかしそんなのだけでは退屈と言う向きには、命がけの挑戦をするという生き方もある。
この世の人間の性質は総て、絶対者の一部分をあらわしているのだから、
絶対に悪いという性質もなければ、絶対に正しいと言う性質もない。
それぞれ対象によって、良く現れることもあれば、悪く現れる場合もある。
だから、場合によって自分の性質(特徴)のあらわし方を、加減するように気をつけたら良いと思う。

人はこの世に生まれるときに、人生の課題をだいたい決めて生まれてきていると思われる。
その課題の種類に、貴賎上下などはない。
人間はみんな平等であると言うのはそのことである。

舞台で殿様になっている役者より、女中になっている役者の方が、老練である場合もあるように、
この世の地位などは、役者の役どころに過ぎない。

財産と言うものも、一定量あればそれ以上あっても余り意味はない。
本当は必要なときに必要なだけ手元に持ってこれたら、それが身軽で一番のはずである。
だから人間は無一物で生まれるけれど、如意宝珠の玉を内に秘めているのである。

という訳でせっかくこの人生ゲームをしに生まれてきたのだから、
ここで只のゲームに現を抜かしているなど勿体無い限りであると思う。
全知全能の唯一絶対者の創りたもうたこの人生ゲームを、存分にクリアしていきたいものである。

どんな地位であっても、本来的な意味では貴賎上下は一切ない。
あるのは役どころである。
役どころであるから、役どころを演じねばならないけれど、
卑下する事なく、存分に役どころをこなしていけばよいのだと思う。

というようなことが、現在の私の人生観・宗教観である。

追記
チャップリンが語る愛の世界
http://dendrodium.blog15.fc2.com/blog-entry-1119.html
も、合わせてご覧ください。

Comments

拝見しました。
大いに共感いたします。
重力に縛られ、ごく限られた認識能力しかなく、また、煩悩熾盛であるという設定も、もしかして、敢えてのことであるのかもしれないというような感じが、時々ふっとわいたりもいたします。
人間として生きる日々は、本来、毎日が祝祭なのだとも思います。

西田瓜太郎様

コメント有難うございます。
やっぱりこういう考え方の人が日本人には多いのでしょうね。
日本人のこういう宗教観が、外国から来た宣教師には、不人気らしいですが・・・・
日本人は、宗教的に洗脳して侵略するのが難しい特質を持った民族ということでしょうか?

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