Dendrodium 歴史

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奴国の遺跡から銅鏡の鋳型発見 

国内最古の青銅鏡鋳型 紀元前に国産か、福岡・春日市 [福岡県]
西日本新聞 2015年05月28日
 福岡県春日市教育委員会は27日、同市須玖南の須玖タカウタ遺跡から朝鮮半島の青銅器文化を代表する遺物の一つ、多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)系の石製鋳型の一部が国内で初めて見つかったと発表した。鏡鋳型としては国内最古となる紀元前2世紀ごろ(弥生時代中期前半)のものとみられ、従来の出土例より150~200年古い。多鈕鏡が朝鮮半島製とされてきた説を見直す契機となり、紀元前にも鏡の製造技術があったことを示す貴重な発見としている。

 市教委によると、多鈕鏡は鏡裏側にひもを通す穴のあるつまみ「鈕」が複数付いた鏡で、祭祀(さいし)に使ったと推定される。鋳型片は長さ5・1センチ、幅2・5センチ、厚さ2・3センチ、重さ39グラムの滑石(かっせき)。市教委が出土品の水洗い作業中、幾何学的な文様のある小さな石を見つけた。専門家に鑑定を依頼した結果、石に小さな三角形のくぼみがあり(1)くぼみは鈕の穴部分とみられる(2)文様は複数の直線と曲線の組み合わせ-などから多鈕鏡の鋳型と判断した。多鈕鏡は国内で12の出土例があるが、鋳型が見つかっていなかったため朝鮮半島製と考えられていた。

 これまで国内最古とされた鏡鋳型は、福岡県うきは市出土の小型〓製鏡(ぼうせいきょう)など1世紀ごろの出土品だった。

 同市文化財専門委員の武末純一福岡大教授は「文様は半円形を重ねたような重弧文で日本独自の鏡の可能性が高く、画期的な発見だ。当時、高度な技術が必要な多鈕鏡を造っていた可能性が高くなった」と話している。

 同遺跡は、中国の史書「魏志倭人伝」に登場する「奴国(なこく)」の王都があったとされる須玖遺跡群の中核、須玖岡本遺跡(国指定史跡)の約200メートル西にある。同遺跡群が、高水準の青銅器の一大生産拠点であったことをあらためて示す遺物としても注目される。

 鋳型片は28日~6月3日、春日市岡本の市奴国の丘歴史資料館で展示される。

※本文中の〓は「にんべん」に「方」


反戦塾「邪馬台国前史が始まる」で、
先月末頃古代史にとって重大な発見が、福岡県の奴国の遺跡近くであった事を私は初めて知った。
これ迄は、国内にある卑弥呼の時代以前の銅鏡は、総て大陸から渡来した物だと思われていたが、
奴国の遺跡近くで銅鏡の鋳型が出土した事によって、
銅鏡は卑弥呼の時代より300年以上遡る時代に、既に国内生産されていたという事になるらしい。

以下に上記「反戦塾」の記事を複写させて頂く。
     (引用)
 邪馬台国前史が始まる
 日本史は何時から始まるのか、という課題に答えるのは難しい。少なくとも文献があって時期が特定でき、その文献を裏付ける物的証拠があれば、伝説とか神話ではなく歴史研究の対象になり得る。それに、人名や地名などが加わればもっといい。

 日本の正史『日本書紀』で、完全な歴史と認定できるのは、中国文献と符合する倭王・武(雄略天皇)のころ(477年)からで、それ以前は、『書紀』の記述と巨大前方後円墳の出土品の科学的な年代測定が凡そ合致すれば、「推定・歴史」に昇格できるという程度である。

 その微妙な位置にいるのが『魏志倭人伝』の女王・卑弥呼とその本拠・邪馬台国で、場所と人が分からないことから、戦後は研究者や素人に人気のあるテーマとなった。しかし、巨大前方後円墳古墳の始まり「箸墓」に女性を葬ったとする『書紀』の記述に加え、近くの纏向遺跡からは都の存在を証拠づけるような発掘が進んでおり、論争はやや下火になっている。

 そこに突如として九州での発掘ニュースが入った。
 福岡県春日井市の須玖遺跡で、紀元前100~200年頃の銅鏡の鋳型が見つかったことだ。卑弥呼の時代、239年より300年以上前の時代である。これがきっかけとなり、卑弥呼が魏王から賜ったとされる三角縁神獣鏡100枚の価値が劇的に下がってしまうのである。

 鋳型が発見された場所は、奴(な)国の本拠地とされている一帯の中にある。奴は『魏志倭人伝』に出てくる国名だが、それより前の時代の『後漢書』にも記事がある。


 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

 これは西暦57年のことだが、賜った印綬の実物が江戸時代に志賀島の畑で発見されている。「漢委奴国王」と刻まれた金印である。文献があって物的証拠もある。完璧な歴史的事実だ。手元にある河出書房版『日本史年表』の一番最初に掲げられた事績になっている。

 その奴国で卑弥呼の時代よりはるかに古くから精巧な銅鏡を作っていた証拠がでてきてのだ。邪馬台国にはない確実な歴史的証拠の金印が国宝として存在する。これまで奴国が軽視されてきたのは、国王についての情報がなく、九州の福岡市に近い一部を支配するだけで、倭国を代表する存在と見なされなかったということが大きい。

 As20150527004456_comml1_2この地域は、銅鉾、銅剣、銅鏃、せさらには弥生時代近畿・山陰方面で多用された銅鐸まで生産していたことは知られていたが、銅鏡がこんな古くから作られていたというのは驚きであった。国内各地で発掘される卑弥呼以前の古い鏡は、前漢鏡とか後漢鏡あるいは朝鮮半島製など、舶載鏡が直接各地に渡っていたとされることが多かった。

 これまでの定説は「卑弥呼は銅鏡を大変好んだ。魏王に対する朝貢の見返りとして銅鏡100枚を受け取り、さらに国内有力族長を統率するためそれをさらに分与した」というものだ。しかし同デザインの鏡は100枚以上あり、国内でコピーしたいわゆる日本で中国の鏡を真似てつくった倣製鏡説がある。また、国産の大型鏡が生産されていたことから、後の時代には呉の工人が移住してきて生産したなどとも言われている。

 実際にはそのはるか昔から鏡も国産品があり、奴から各地に頒布されている可能性が高まった。奴が倭国を広域支配していたと見なすことは無理があるとしても、通商などで大きな力を持っていたはずである。だからこそ、後漢の光武帝が倭の代表として金印を授けたのだろう。

 倭100余国のひとつに金印を下賜するというのは、やはり考えにくい。銅鏡に関しても今後新鋳型が発見されたり、古鏡の分析・分類が進むことにより、邪馬台国以前の弥生時代への関心が高まって、邪馬台国ブームにとって代わるかも知れない。

 近くに春日市奴国の丘歴史公園という施設がある。比較的近い大宰府天満宮は観光客で人波が絶えないが、塾頭が数年前資料館を訪れた時は人影まだらだった。館長が「関東からわざわざ」と言って親切に案内してもらったが、これからはもっと関心を持つ人が多くなるのではないか。

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