映画「靖国」と表現の自由の逆説 

世に倦む日々に「靖国」と表現の自由の逆説 − 石井紘基と公共の福祉の規制という題で書いておられる記事の一部をご紹介したい。
たしかに言論の自由と言っても、何を主張しても良いということになったら、今の時代どんなグロテスクな主張をする者が出てこないと言う保証はなく(現に2000年の『バトル・ロワイヤル』は、中学生が凄絶に殺し合う映画がビート猛が出演して話題を集め、若者に多大の悪影響を与えている。)
言論統制に輿論を持っていくためにも、酷いエログロナンセンスな映画を作るのを、敢えて見逃しているのかもしれない。
そのためにも他人の権利を侵害せず、かつ憲法的秩序または道徳律に違反しない限りという一条を入れておかなければならなかったのではないかというご意見に私も同感だった。

有害な映画やゲームが社会に悪影響を及ぼす場合は、それが明らかな場合は、政府が「公共の福祉」の論理で規制をかけないといけない。憲法12条によれば、憲法が国民に保障する権利は常に公共の福祉のために利用されるべきものであって、国民はこれを濫用してはならないとある。無制限の表現の自由などない。石井紘基の言うとおりだ。『プライド』の場合はどうか。公共の福祉に関連してドイツの基本法第2条には次のような規定がある。「何人も、他人の権利を侵害せず、かつ憲法的秩序または道徳律に違反しない限り、自らの人格の自由な発展を求める権利を有する」。この中の「憲法的秩序または道徳律に違反しない限り」という部分が注目される。この文言は日本国憲法の第12条にも明文化して挿入しておけばよかった。「憲法的秩序」というものがある。90年代初め、ドイツも日本と同じように経済が停滞し、極右ネオナチが台頭したが、ドイツは日本のようにはならなかった。右翼のイデオロギーの台頭と拡延をよく阻止した。
日本で、表現の自由が「憲法的秩序に違反しない限り」保障される留保と制限がついた場合、憲法判断として『プライド』は上映許可されないだろう。前文を読めば日本国憲法が何を誓い、どのような思想を固持すると言い、どのような思想を拒否すると言っているかは瞭然である。本来、憲法はそのように運用されるべきで、憲法の秩序に違反する言論や表現の自由は認めるべきでなく、政府が規制に乗り出すべきである。『プライド』は上映禁止が当然、『ゴーマニズム宣言・戦争論』は出版禁止が当然ではないのか。日本の国民と政府が憲法を正しく守っている社会状態というのは、『プライド』や『戦争論』が違憲作品として規制される状態であるはずである。そうでなければ、戦争放棄を誓ってラディカルな平和主義を掲げた日本国憲法は、憲法としての規範性や秩序性を全く失うことになる。空文化する。『プライド』が規制されることなく、逆に『靖国』が政治権力の手で規制される現実とは何なのか。それは、この社会が日本国憲法ではなく大日本帝国憲法の秩序と規範の下にあるということだ。
(世に倦む日々より一部分のみ引用)

エコの壁 

養老猛司さんの次の記事を読み、記録しておきたくなりましたので、此処に転載しました。
宜しかったら御覧下さい。(去年のものですので、もう読んでおられるかもしれませんが・・・・・)

    (引用始め)
「エコの壁」(上) 環境問題はなぜ理解できないか――養老孟司さんに聞く

養老孟司(ようろう・たけし)
東大医学部解剖学教室教授を務め、95年退官。「唯脳論」「バカの壁」など著書多数。昆虫好きの自然派で環境問題に造詣が深い。政府の環境関連委員も歴任。

環境問題はなぜ理解しにくいのか。国際的な政治のテーマとなった温暖化対策で、日本はどうして存在感を示せないのか。東大名誉教授の養老孟司氏は、「環境問題を世界全体のシステムで考えるべきだ」と主張する。石油に依存した米国社会、日本での都会暮らしが失わせる人間性など、環境問題への見えない壁の数々。「バカの壁」ならぬ「エコの壁」を乗り越えるヒントを、養老氏に聞いた。
◇   ◇   ◇
■環境問題はシステム問題

――環境問題はなぜ理解しにくいのでしょうか

 環境問題はシステムの問題だからだ。社会システム全体を考えないとだめ。部分的に解決しようとしてもうまくいかないから、環境保護の推進派もその反対の人も、時々ヒステリックに反応する。そういった問題点が集約されているのが、地球温暖化問題だ。

 日本の炭酸ガスの排出量は、世界の総量のわずか数%にすぎない。日本人がまったく出さなくても数%しか改善されない。改善に効果を見込める米国、中国の2つは京都議定書に参加していない。だから、日本では温暖化問題は精神運動に終わるしかない。

 国民1人あたりの排出量は確かに多い。1人当たりの排出量を大幅に削ることは、日本人ならば十分できるはず。ただ、日本の省エネはかなり限度に近づいているとも言える。

 つまり、いまでも非常に効率がいい社会。これをさらに進めるのはコストが高くついてしまうということをどう考えるのか。「環境が商売になる」とも言われる。確かに、あるところまではなるでしょうが、あるところから先は難しい。

 原発があるじゃないかという議論がある。しかしこれも、廃棄物処理問題などさまざまな環境への影響があるし安全対策の問題もある。「原発だけで原発を作れるか」という問題もある。大型トラックが動かない状況で原発は作れない。全体として採算が合っているかというと、ちゃんと計算できない。システム全体としてみた場合、どのくらい社会全体の利益になるかがわからない。

 社会はシステム全体が絡み合っているから、ごまかしながら上手に動かしていけているだけだ。そういうところまで考えると環境問題は非常にやっかいな問題だということがわかるはずだ。

――「できることから始めよう」ではダメ?

 環境に配慮した生活を送ることも大切だ。しかしそれは生き方の問題だ。ただ、一人ひとりがどれだけがんばっても、社会システムにはあまり関係ない。そこをはっきり言わないと、かえって悪い影響がある。

■ゴアは「一番大事なこと」を隠している

 ――アメリカも環境問題に積極的になってきていますが

  アル・ゴアの「不都合な真実」は、実は一番大事なことを隠している。炭酸ガスの温暖化問題はアメリカ文明そのものの問題。そこを言っていない。彼は環境問題は倫理問題だというが、石油に依存してきたアメリカ文明そのものが倫理問題に引っかかってくる。

 20世紀に入って、テキサスから大量に石油が出た。それまでの石炭に替えて、石油の可能性をいち早く利用したのがアメリカだ。フォードが大衆車を世に出したのはそのすぐあと。アメリカの本質は自動車文明ではなく、石油文明だ。

 さらに言うと、アメリカが主導してきた自由経済と呼ばれるグローバルシステムには、1つ制限がかかっている。その暗黙の制限は「原油価格一定」ということ。同じ価格で無限に原油が供給されるという前提の上に、米経済は成り立っているわけだ。

 米国産の石油が足りなくなったから、アメリカは世界中から石油を探した。いまアメリカが石油に敏感なのは、原油価格が上がれば米経済を直撃するとわかっているからだ。石油供給に関する安全保障を徹底的に考えてきている。

■石油に頼って、人間を鍛えなくなった

 ――エネルギーに依存した便利な生活の方向転換は大変です

 一般的には文明とは「生活を便利にすること」だと思われている。しかし、それは表層的な理解にすぎない。本質的には、文明は「秩序の維持」なのだ。そして現代文明は、社会秩序を保つために、石油を使っている。

 たとえば部屋の温度は自然に任せていると勝手に変化する。だが一定の秩序を保たせるために冷暖房を入れる。その仕組みを維持しているのが石油エネルギーだ。電車が時間通りに来るのも、石油が足りなくなればあっという間に不可能になる。

 古代にも文明はあったが、このとき使える資源は石や木材しかなかった。それでも秩序を維持するために彼らは何をやったかというと、むしろ人間を訓練した。そうする中で「偉い人」が生まれた。

 石油文明は人間を訓練しない。だからマニュアル主義となる。根本的にはエネルギーが秩序を支えてくれる。人間は役に立たないという前提で、それでも社会が成り立つようにシステムができている。

 その結果何が起きたか。人間の質が劣化したのだ。「なぜ日本人は劣化したか」という最近の本がある。面白いことにこれを読んでも「なぜ劣化したか」はひとことも書いない。劣化したのは、実は本来人間がやるべきことを石油にやらせているのが理由だったのだ。

 昔は「努力・辛抱・根性」という言葉があった。よりよい生活をするためではなく、根本的には、社会秩序を維持するためにこそ「努力・辛抱・根性」は必要だった。それを消しちゃった。それでも秩序が保てるのは、エネルギーを大量に使っているからだ。

 ところがここにきて、この仕組みを維持できなくなってきた。それが地球温暖化と石油埋蔵量問題だ。米国は京都議定書に入らなかった。日本は大変なコストをかけて議定書を守るだけでは、国際競争上、大損をすることになる。しかも日本がいくら節約したところで、温暖化にはほとんど関係がないのだから。

 残念ながら石油はなくなる。短い計算ではあと40年とも言われている。石油がなくなるとき、日本はどうするのか。シミュレーションをやってみるべきだろう。

 しかしわかっていても、手を打てない。「死の壁」でも書いたように「あなたは死にますよ」と言われても、本気で死ぬことについて考えることは難しい。それぐらい、人間はバカで、そこに大きな壁があるのだ。

■ラディカルに考えなければ負ける

――これからポスト京都議定書に向けた駆け引きが本格化します

 日本政府が掲げる「2050年に炭酸ガス半減」という目標は、日本だけでやるなら十分に可能な数字だろう。ただ、温暖化防止を本気で考えるなら、アメリカ、中国がコミットしなければもはや意味がない。そのとき大切なのは、相手の土俵に乗らないということだ。

 「不都合な真実」は確かに温暖化の危機を提示した。しかし、米国が今回も正しい、というところから始めるのは得策ではない。アメリカには「脱石油社会はあなた方の問題でしょう」と問い、中国には「温暖化で困るのはあなた方でしょう」と説得すべきだ。私のようにとことんラディカルに考えておかないと負けてしまう。 なぜなら、日本はもともと石油無しで文明を作ってきた歴史がある国だ。そのために人間をいかに訓練しないといけないかもわかっていた。「モッタイナイ」という言葉もそうだが、新しい社会のモデルは実は日本にこそある。

――地理的に近い中国は運命共同体でもあります

 そうだ。越境汚染など、問題は一国にとどまらない。中国の植林などの支援は徹底的にやるべきだろう。利害は一致しているはずだ。
[2007年5月31日/Ecolomy



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